蕎麦の語源


 延喜十八年(918)刊『本草和名』には、ソバの和名として「曽波牟岐」の字が当てられ、「ソバムギ」と訓読しています。 ソバムギと名付けられたのは、実の形が三角形で三つの稜(そば)(角のこと)があるためです。
それだけならば「ソバ」だけでも十分ですが、古代すでに栽培されていたムギ(小麦)と新しく渡来したソバとの区別をつける必要があったためソバムギとしたという説が有力です。


 ソバムギが略してソバと呼ばれるようになるのは室町時代以降のことと考えられ、今日では、ソバには「蕎麦」の字が当てられていますが、実は古訓ではソバではなくソバムギとよんだようです。

そば切りの起源


 日本でのそば栽培は五世紀の中頃にまで遡るといわれていますが、そば切り(麺)としての歴史はまだまだ浅いのです。また、それが大衆食として普及したのは、江戸時代中期に入ってからで、農村においても一般化したのは同じく江戸時代中期以後のことです。

 

 それまでは、そば米やそばがきとして食されることが主で、農村において当時はまだハレの日や振る舞いのためのご馳走だったようです。

そばの名称(もりそばとざるそばの違い)


 もともとそば切りは、汁につけて食べるのが主流だったのですが、元禄(1688~1704)の頃から、これを面倒くさがる男たちが、そばに直接汁をかけて食べるようになりました。

 

 この食べ方を「ぶっかけそば」と称して売り出したとされます。その後、寒い季節になるとそばを温め、熱い汁をかけてだす様になりました。このぶっかけそばが「ぶっかけ」となり、さらに「かけ」と略称されるようになったのは寛政(1789~1801)に入ってからであるといわれています。

 そのうち「ぶっかけ」が流行るにつれて、それまでの汁につけて食べるそばのことを、なんと呼ぶかが問題となりました。そこで生まれた呼び名が「もり」です。それは、蒸籠に蕎麦を盛るから「もり」といった説もありますが、単に高く盛りあげるから「もり」という説もあります。

 

 一方、ざるそばの元祖とされるのは、江戸中期、深川洲崎にあった「伊勢屋」で、蒸籠や皿ではなく竹ざるに盛って出すので「ざる」と名乗ったのが始まりといわれています。

 

 「もり」にもみ海苔をかけ、蒸籠も替えて「ざるそば」として売り出したのは、明治以後のことです。


 今日では、「もり」「ざる」ともに違いはなく、なんと呼ぶかは、その店によってまちまちですが、当店では「もりそば」として御品書きに載せています。


十割そば(生粉打ち)


 そば粉100%(十割)で打ったそばのこと。一般にそばを打つ場合、そば粉だけではうまくつながらないため、つなぎとして小麦粉を加えます(二八そばなど)。


 その小麦粉のことを「割り粉」というのですが、それに対して、そば粉そのものをさして「生粉」と呼んだことから、生粉打ちという言葉ができました。


 そばをそば切り(麺)として、食されるようになったのは江戸時代中期になってからですが、「割り粉」をつなぎとしてそばを打つ技術が出てくる「元禄末から享保」までは、そば切りといえば十割そばだったと考えていいでしょう。


 当店でお出しするそばは、すべて十割そばです。

色物と変わりそば


 「変わりそば」とは、色の白いそば粉(本来は「さらしなそば」に使うさらしな粉)にいろいろなつなぎ、混ぜ物をしてそばに仕立てたもののことで、中でもとくに色が鮮やかに出て、見ても楽しめるものを「色物」といって区別しています。


 この様な「かわりそば」が生み出された背景には、寛延(1748~51)頃の製粉と製麺技術の完成が不可欠で、とくに「色物」は、混ぜ物の色が鮮明である必要があるばかりでなく、その色を生かす土台となるそば粉の色が白くなくてはなりません。つまり、さらしな粉が精製されるようになってはじめて幅が広がったのです。

 

 当店でも「かわりそば」「色物」は、「四季そば」としてその時の旬なものをさらしな粉に練りあわせてお出ししています。

そばがのびるとは、どのような状態を指すのか


 うまいそばの三条件として俗に「三たて」といいます。挽きたて、打ちたて、茹でたて、です。


 しかし、食べ頃を過ぎたそばは、次第にシャキッとした勢いが失われ、ぐにゃぐにゃになってくっついてしまったりします。くっつかないまでも、歯切れのよい、そば独特のこしの立つ食感はなくなっています。このような状態を指して、そばが「のびる」といいます。

 

 そばは、茹でて水にさらされた後は、麺の中心と表面の水分差がなくなっていき、全体が柔らかくなり、のびてしまいます。これは、そばのたんぱく質に水溶性が多く、グルテンがないことが、うどんよりのびやすい原因になっている理由で、汁をかける温かいそばは、汁を早く吸収して柔らかくなり、「のびる」のがさらに早まります。

そば湯とは何か


 そば湯とは、そばを茹でた後のゆで汁のことで、そばが栄養バランスの優れた食品であることは周知の通りですが、そば湯には、茹でるときにその栄養分がたくさん溶け込んでいます。現代栄養学を知らなかった昔のひとが、そばを食べた後でそば湯を忘れずに飲むことをすすめたのは、そば湯が栄養に富んでいること経験的に知っていたからといえます。


 この、そばを食べた後にそば湯を飲むという風習は、まず信州で始まり、それが江戸に広まったとされています。年代は明らかではないのですが、元禄十年(1697)刊といわれる『本朝食鑑』は、早くもそば湯を取り上げ、そばを食べた後にそば湯を飲まなければ必ず病気にかかる、とも解釈される内容のことを書いてあります。

引っ越しに、なぜそばを振る舞うのか


「引っ越しそば」は、江戸時代中期から江戸を中心として行われるようになった習わしです。

 

 転移先に荷物を運び入れたところで、家主、向こう三軒両隣りに、新しく引っ越してきた挨拶としてそばを配るようになりました。その訳は、そば(近く)に越してきたということに引っかけて、「おそばに末長く」あるいは「細く長くお付き合いをよろしく」といったとのことですが、それは、江戸っ子の洒落で、本当はそばが一番手軽で安上がりだったということが理由でしょう。

大晦日に、なぜそばをたべるのか


 年越しそばには、「歳取りそば」「大年そば」「大晦日(おおつごもり)そば」などの別名がありますが、その起源はあきらかではありません。また、江戸中期頃には、すでに歳末の習わしとなっていたと推測されます。由来には次のような諸説があります。

  1. 「運そば」説 鎌倉時代に、福岡の年末を越せない町人に「世直しそば」として、そば餅をふるまったところ、翌年から町人たちの運が向いてきたので、以来、大晦日に「運そば」を食べる習慣になったといいう説。「運気そば」あるいは「福そば」ともいいます。
  2. 細く長く」の形状説 そば切りは細く長くのびることから、家運を伸ばし、寿命を延ばし、身代を永続きさせたいと縁起をかついだという説。「寿命そば」、「のびそば」ともいいます。
  3. 「切れやすい」ことからの形状説 そばは切れやすい。そこから、一年の苦労や厄災をきれいさっぱり切り捨てようと食べるという説。「縁切りそば」「年切りそば」ともいいます。

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